昭和五十六年一月二十五日 朝の御理解
御理解第十九節
金光大神は形が無うなったら来て呉と云う所へ行ってやる
教祖金光大神の大した御信心と申しますか大した確心をこのような言葉で表現しとられると思うですね。お互い死んだ先どうなるやら、又は事実そういう事が出けるようよっぽど天地金乃神様との確たるお約束でも交わしておられなければ云える事じぁないと思うですね。いわゆる確心。それをなら金光教はじまって百年。たしかに金光大神と心から唱える所に金光大神取次の働きが頂けるという実証がまあ百年間続けられて来たのが金光教の信心だと思うです。金光様を唱えてもそのやはり金光大神取次の働きというものがこの頂けてきた。
そこでそのおかげが頂けてまいりましたその頂く内容というものがいよいよ確かにその事を確心して日常生活の上に表していけれるおかげを受けなければいけません。
昨日は北野の上滝さんの所の好例の宅祭でした。沢山昨日はお参りがあっておりましたが、私はあそこへまいります時いつもまあ楽しみでまいりますけれども、いつも真心まあこめたというかそのお料理があすこのお料理は非常に美味しいんです、いうなら私好みなんです。中でもあそこで手打ちのそばが毎年頂ける事、それから芋がらの干したやつ、それを上手に煮付けてあるんです。もうこれが楽しみでまいりましたが昨日は初めから最後まで私がこうじょう(苦情の意)の云いぱなしで、こりあ、あんた食べられん、こげん砂糖入れち甘もうして食べられん、おそばでんなんでんいつも二杯お替わりしよったばってん今日のおそばは一杯しか食べんち、もうみんなにあの美味しくないというか砂糖が効きすぎて食べられんのですよ。そげん云うちからやっぱ頂きましたけれどもね、それでお祭がすんで家族中で挨拶に来ましたから申しました事でしたけれども、結局私の口がこの頃兎角私の口の中というものは甘草を喰わえとるごと甘いんです。お水を飲んでも甘いんです、ねえ。
だから、お料理がいつものように美味しく出けておるのにちがいはないのだけれどもね、私の口が変わっておるという事をあんた方が知らなかった。此の頃合楽で頂きますものは、私が甘い甘いと云いますから此の頃では私の口にあいますように勝手の方がまあ工夫してくれるようになりまして口にあうようになった。所が上滝さんはそれを知らなかった。
だから今までどおりにしてあったんでしょうけれども、私の口にあうもの甘すぎて食べられなかった。食べられなかったというて食べたですけれども、こうじょういいながら食べたようなわけでございましたけれどもね。それで私が三人に私がこうじょういうわけを話した事でございます。
親先生が喜ぶようにいつものようにお蕎麦も作った。芋がゆの煮付けも出させて頂いた、所が先生が甘い甘いというてこうじょうを云われる。結局、親孝行というものはね親の心が分からなければ親孝行は出けないよと私が申しました。
芋がゆが好きじぁから、蕎麦が好きじぁからといつも同じじぁ駄目だと。肝心要の最近なら口がかわっておるという事を知らなかったからこういう結果になったんだ。信心でもそういかに麗々しうお祭を仕えた所です、それで神様がお喜びなさるという事じあない。神様のいうならお心が分かってお心にそい奉るお祭をさせてもらはなけりあ。いうならばおごちそう一つ作らせて頂くでも、なら私のいうならば私が美味しいというもんじあなからなければおごちそうじあないというような事を申しました事でございましたけれどもね、たしかにそうです。あちらのまあ今度あちらのお祭を何とはなしに生き生きとした感じでお祭が仕えられた。というのは、あちらの長男の弟の方が黒岩家に養子に行っとります。この人がお父さんと同じような病気で今度入院しとりました長い間。でおかげを頂いて最近退院のおかげを頂いとりますがもう嫁御子供達が三人おりますが、子供達までが一生懸命御祈念をしてお参りしてくるんです。
そしてまあお父さんが一日も早う退院のおかげを頂くようにと云うて、まあだ小学校三年生かそん位の子供達がずうっと三人居るんですけれど、もう兎に角あの大した信心も無かったんです。けれども、少しやはり真剣になってきた。お参りしてくるたんびんに、例えば本家の方で宅祭があるその宅祭の事を必ずお願いをして帰るんです。そういうような生き生きしたものがあったからじあなかろうかと思う位に昨日はその御参拝といいお祭の内容といい何か生き生きとした今までかつて感じた事のないようなお祭を奉仕させて頂きました。けれども、最後には私がこうじょうやら御理解やら分らんような事を云いながら、これが云えるという事、又あんた達もこれは聞けるという事が有難いとばいとばいち私が申しました。
今度たとえば作るときにあ、親先生の云うならば、いうなら口が甘うなっとんなさるならば、それにあわせて今度は作らせて頂く事になる。親先生は喜んで下さる。いや今日んとは美味しかったと、云うて喜んで下さる、それがそのまま神様へも交う通ずるという事をあなた方が信じておるからまあ親先生中心にしてお祭も仕えるならお夕食一つ差し上げるというても兎に角親先生がお好きなものはと云うてちょこちょこまあ沢山いろいろ作ってある。それがいっちょいっちょそうりあ甘すぎる。こりあというて「こうじょう」云われるような事ではいけない。その弟嫁が今度八日の福引きに「神を神と用いてくれ」という札を引いたと、こりあどういう事でしょうかと云うてあちらへまいりましたと申します。
これは教祖の神様のまだ神様との交渉やらがある初めの頃にこの言葉が出てくるんですね。「神を神と用いてくれ」だから神様は用いられようとしておられる使うてくれと云うておられる、という事はただなうあればお願いしますよ、これは頼みますよという事だけではない。神を神と用いるという事は、神とたててくれという事。そこにいうならばまあ、いうならばあいよかけよの道はそこから開けたわけでしょうけれども、先ずは、神様に用いられる私にならなければいけない。その神様に用いて頂きたいという、それが神様の心が分からずには出ける事ではないのだと。
いよいよ神様の心が分らしてもらう。そこに云うなら信心があるのであり、又求められるのである。金光大神が来てくれという所にや来て下さると、来てもろうただけじぁ出けん。神様がいうなら用いられて下さらなければ出けん。そこでなら私共が百のものを願わしてもらうならば百のものが頂けれる持てれる力を頂かなければならん。そこに信心がある。昨日のあちらの今度の神前拝詞を使わして頂きましたから、この内容を一つ一つ分からして頂くと、合楽で今まで頂いておった教えがいうならば祈りの言葉として出てきておるからその祈りの言葉を自分達の信心の上にこう唱え詞ことばだけではない、実際にそういうあり方にならせて頂こうというなら神様の心が打ち出されてあるのだから、その神様の心を頂き分からして頂いて、そして金光大神でなからなきゃならん。そこに金光大神取次の働きはその場で速そこでおこる事になるのです。金光大神様が形が無うなったり来てくれと云う所に行ってやる、まあ大胆といや大胆ほんなこつじぁろうかと思うような感じである。そんなこつが出けなさるじぁろうかとこう思う。所がたしかに百年間の金光教の過去の信心をみると金光大神様で助かってきておる。金光大神 取次の働きを受けてきてはじめて今日まで金光教が続いておるのである。
だからこれはたしかな事だと思わせてもらう。そこでなら金光大神 来て呉という所に来て下さる。そこには用い用いられる所の働き合いというものがあって、はじめておかげを頂くと云う事になる。金光様の信心は、どこまでも願い捨てとか頼み捨てとかいう事ではない。頼んでおかげを頂いた、これはまあ、ここ二、三日頂いておりますように、そのおかげの世界からお徳の世界へというのが合楽でのお話しである。おかげだけなら神様を使いっぱなしでもいいのですけれども、お徳を頂いていくという事においてはそれこそ用い用いられるその両面がなされていかなきぁならない。そこにいうならば、お徳の世界に住み替えていくおかげ、それがなら祈念詞、拝詞の中に謳ってあります。自分が助かり、そしてそこに難儀な氏子に取次いでいくお導きをしていくといったような働きというものがおこってこなければならない。
神様には口もなく手もなし足もなし、いうならば神様の口ともならせてもらい、神様の手にも足にもならせて頂く、いわば神様のご用に用いて頂く、そこから、いわゆる用いてくれといわれる神様がおかげを下さろうとする働きを十全に受けていく働きもおこってくるんです、昨日上滝さん所でご神前に出らせて頂いた途端に頂きましたのが、今春場所の角力があっております。あれは、千代の富士というのでしょうか、今全勝力士がおりますね、体は小さいけれどもその人が土俵の上でそれこそもう、こう盛り上がった一ぱい全身に力をこめてあの構えておる所を見たんです。信心は詳しくなった、力があるというだけではおかげにゃならん。そのいうならば精神面が大事である。何が何でも勝ち抜くぞという、いうなら昨日頂き一昨日も頂いております、その神様へ一直線といったような勝利へ向かって一直線の心というものが、いわゆる構えがいるんだというような事を頂いたんですけれどもね、どんなに詳しくなった力が出けたと云うてもですねえ、やはりその精神力を欠いたらやはり勝ち抜く事は出けない。
こりぁお角力の場合ですけれども、信心もやっぱしそういうものがいるんだという事をまあ頂きました。ねえ、いつも神様の相対して、その神様との交流を願うという事は、生き生きとしたものがなからなければ交流はありえない。神様に用いて頂く、神様が用いられて下さる。そういう働きあいと云うものは、生き生きとしたもの同志の者でなからなければ、生き生きとした者同志でなからなければそこから生み出される働きとか合楽の世界というものは顕現されない。生き生きとした心で金光大神を唱えさせてもらいそこに金光大神のお取次の働きを十全に受け止める力をいよいよ頂きたい。
どうぞ